坂路調教の全て:科学的効果から勝率、体重変化、地方競馬での活用まで徹底解説
- POPEYE

- 11 分前
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序論:坂路調教とは何か?
競馬における「調教」は、競走馬をレースで最高のパフォーマンスを発揮できる状態に仕上げるためのトレーニングです。
その中でも、特に重要な調教方法の一つとして知られるのが坂路調教(はんろちょうきょう)です。
坂路調教とは、文字通り傾斜のついた坂道コースを駆け上がらせるトレーニングを指します。日本では1980年代に栗東トレーニングセンターに導入されて以降、多くの名馬の育成に貢献してきました。特に、平成4年(1992年)の二冠馬ミホノブルボンが栗東坂路でハードなトレーニングを積んだことは有名です 3。
本記事では、この坂路調教が競走馬にどのような影響を与えるのか、
その科学的根拠から、具体的な勝率データ、そして中央競馬(JRA)
と地方競馬での活用の違いや、馬体重の変化という複雑なテーマに至るまで、
あらゆる角度から徹底的に解説します。
第1章:坂路調教の科学的効果
坂路調教の最大の効果は、平坦なコースよりも効率的に心肺機能と筋力へ高い負荷をかけられる点にあります。これは、JRA(日本中央競馬会)などの研究機関による科学的なデータによって裏付けられています。
1.1 心肺機能への絶大な効果
坂路を駆け上がる際、馬は平地を走る時よりも多くのエネルギーを必要とします。
JRAの研究によれば、トレッドミル(ランニングマシン)を用いた実験で、
傾斜が1%増えるごとに心拍数が1分あたり4~6拍増加することが確認されています。
一般的な坂路コースの傾斜である3%の場合、平坦なコースと比較してハロンタイム(200mのタイム)で約3~4秒遅い速度で走っても、心肺機能には同程度の負荷がかかることが分かっています 3。
これは、競走馬の持久力の指標となるV200(心拍数が毎分200拍に達した時の走行速度)の向上にも直結します。
JRA日高育成牧場が2018年に行った調査では、坂路調教の本数を週2本から週3本に増やした世代の馬は、V200の平均値が過去10年で最高値を記録しました 2。
つまり、坂路調教は、馬がより楽に、
より速く走るための有酸素運動能力を効果的に高めるのです。
酸素使用量(Oxygen Cost)の観点 坂路では、1m移動するために必要となる酸素の量(酸素使用量)が、速度が遅いときほど顕著に増加します。
これは、速歩や軽いキャンターといった低速の運動でも、ある程度心肺機能に負荷をかけられることを意味し、若馬や故障明けの馬のトレーニングにも有効であることを示唆しています 3。
1.2 後肢と体幹を鍛える筋力トレーニング
坂路を駆け上がる動作は、平地での走行とは異なる筋肉の使い方を馬に要求します。
特に、推進力を生み出す源である後肢(トモ)の筋肉に大きな負荷がかかります。
馬は坂を登るために、自然と重心を前に移動させ、頭を下げ、
後肢を深く踏み込むフォームになります。この動きを繰り返すことで、
後肢の筋力が強化されるだけでなく、
バランスの取れた効率的な走行フォームが身につきます 4。
坂路走行時のフォーム変化 | 効果 |
頭を低く保つ | 重心を前方に移動させ、推進力を効率化する |
後肢の踏み込みが深くなる | 後肢の筋肉(特に臀筋)を効果的に鍛える |
体幹(腹筋・背筋)を使う | バランス能力と全身の連動性を向上させる |
第2章:データで見る坂路調教と勝率の関係
坂路調教の効果は、実際のレース結果、すなわち勝率にも明確に表れています。
ここでは、2023年の美浦トレーニングセンターの坂路コースのデータを基に、
どのような調教タイムが好成績に結びついているかを見ていきましょう 1。
2.1 全体時計が速い馬の傾向
坂路の全体時計(4ハロン)が速い馬は、特定の条件で高い勝率を示します。
特に「馬なり(騎手が無理に追っていない状態)」で上位20%以内(54.2秒より速い)のタイムを出した馬は注目です。
•ダート1600m: 勝率10.5%
•芝1600m: 勝率9.7%
マイル前後の距離で、スピードの持続力が求められるレースに強い傾向があることがわかります。
2.2 「終い重点」の調教が効果的な条件
全体時計が平凡でも、ラスト1ハロン(最後の200m)を鋭く伸びている馬も好成績を収めています。「馬なり」でラスト1ハロンのタイムが上位20%以内(12.5秒より速い)だった馬の成績は以下の通りです。
•芝2000m: 勝率16.4%
•ダート1800m: 勝率12.2%
•重賞レース: 勝率18.8%、複勝率43.8%
特に、クラスが上がるほど、また距離が延びるほど、
最後の瞬発力(キレ)が重要になることを示唆しており、
重賞などのハイレベルなレースでは極めて重要な指標と言えるでしょう。
第3章:戦略的な坂路調教の活用法
坂路調教は、ただやみくもに行えば良いというものではありません。
馬の年齢、成長段階、体調に合わせて戦略的に活用することが重要です。
3.1 年齢と時期に応じた使い分け
2歳馬(育成期)
•目的: 基礎体力の向上と正しい走行フォームの習得。
•注意点: 骨格が未発達な若馬にとって、坂路は負荷が非常に高いトレーニングです。JRAの
研究でも「2歳の2月頃のハロン18~20秒程度の運動でも、かなりの負荷がかかっている」と指摘されています 4。
見た目には楽そうに走っていても、過剰な負荷は故障の原因となるため、
慎重な管理が求められます。
3歳以上の古馬(現役期)
•目的: 心肺機能の維持・強化、レースに向けた最終調整、体重管理。
•注意すべきパターン: 普段、坂路調教を行わない馬がレース直前に急に坂路を使っている場合、それは「急仕上げ」の可能性があり、当日の馬体重には特に注意が必要です 5。
3.2 坂路調教と馬体重のダイナミクス
坂路調教は馬体重に複雑な影響を与えます。単純な増減だけでなく、
その質を見極めることが重要です。
体重減少:「絞れる」効果
•坂路調教は消費カロリーが大きく、特に放牧明けで脂肪がつきすぎた「太め残り」の馬の体重を効率的に絞る効果があります 5。
体重増加:「筋肉がつく」効果
•一方で、調教によって脂肪が筋肉に置き換わることで、馬体重が増加するケースも多々あります。筋肉は脂肪より重いため、これは成長やパワーアップの証と捉えることができます。
2024年のマイルCSを制したナミュールは、前走から22kg増という大幅な馬体増で出走しましたが、陣営はこれを筋肉量の増加と見ていました 6。
•重要なのは、馬体が増えても「太い」のではなく「たくましくなった」と感じられるかどうかです。
馬体重の変化 | 考えられる要因 | ポジティブ/ネガティブ |
増加 | 成長、筋肉量の増加 | ポジティブ |
増加 | 脂肪のつきすぎ(太め残り) | ネガティブ |
減少 | 脂肪が燃焼し、体が絞れた | ポジティブ |
減少 | 夏バテ、カイバ食いの低下 | ネガティブ |
3.3 競馬場ごとの重要性
坂路調教の効果は、特に最後の直線に急坂が待ち構えている競馬場で顕著に現れます。
日頃から坂路で鍛えられている馬は、坂で失速することなく、
もうひと伸びすることができます。
•特に坂路調教が重要視されるJRAの競馬場: 中山競馬場、阪神競馬場、中京競馬場 5
第4章:地方競馬における坂路調教の挑戦
JRAでは当たり前となった坂路調教ですが、地方競馬ではその導入が大きな課題でした。
しかし近年、その状況は大きく変わりつつあります。
4.1 大井競馬場・小林分厩舎の挑戦
南関東競馬(大井、川崎、船橋、浦和)の調教拠点の一つである小林分厩舎(千葉県印西市)には、2010年に総工費約15億円をかけて本格的な坂路コースが完成しました 7。
小林分厩舎坂路コースの特徴
•馬場素材: 全天候型の「ニューポリトラック」を採用。
電線被覆材やポリエステル繊維などをワックスで混合した特殊な素材で、
排水性・衝撃吸収性に優れ、馬の脚部への負担を軽減します 7。
•目的: 「強い馬づくり」を目指し、南関東全体のレベルアップに貢献すること。他の地方競馬所属馬も利用可能です。
4.2 地方競馬における坂路調教の意義
大井競馬場のような平坦なコースが主体の競馬場であっても、
坂路で鍛えることには大きな意義があります。
King Bee Horse Clubの所有馬であるシジミノヒナコやサコクノクインビーも、
この最新鋭の施設でトレーニングを積むことで、JRAの馬とも渡り合える強靭な心肺機能とパワーを養うことが期待されます。地方から中央へ、その垣根を越えるための重要な鍵が、この坂路調教にあるのです。
結論:坂路調教がもたらす勝利への道筋
坂路調教は、競走馬の心肺機能と筋力を科学的かつ効率的に強化するための、
現代競馬に不可欠なトレーニング手法です。
その効果は、走行フォームの改善から、持久力や瞬発力の向上、さらには実際のレースにおける勝率にまで及びます。
また、馬体重の増減という表面的な数字の裏にある「筋肉の増加」や
「脂肪の燃焼」といった質的な変化を見抜くこと、
そして大井競馬場のように地方から中央に挑むための武器として活用される側面など、
その奥深さは計り知れません。
我々がレースを見る際、調教欄に記載された「坂路」の一言の裏には、
科学的知見と、勝利に向けた陣営の深い戦略が隠されているのです。

